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東京地方裁判所 昭和58年(行ウ)172号 判決

原告 戴福生こと小林諒之助

被告 国

代理人 林茂保 萩野譲 ほか二名

主文

原告が日本国籍を有することを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  日本国籍を有する小林金之助(以下「金之助」という。)は、昭和六年ころの秋ころ、中国上海市において、中華民国国籍を有する戴素貞と結婚した。原告は、昭和七年一〇月二四日同市において、右両名の間の長子として出生し、昭和一四年二月二三日付けで金之助の父小林常吉を父とし、飯塚きくを母とする出生届がなされ、同日付けで小林常吉を代諾権者として金之助を養父とする養子縁組がなされた。

2  原告は、次のとおり日本国籍を取得している。

(一) 出生による原始的取得

(1) 金之助と戴素貞とが婚姻した当時施行されていた国籍法(明治三二年三月一六日法律第六六号、以下「旧国籍法」という。)によれば、外国人が「日本人ノ妻ト為リタルトキ」は、日本国籍を取得することとされ(五条一号)、また、日本人が外国人と婚姻した場合に、その婚姻が我が国法上有効に成立するためには、婚姻の各当事者について、その本国法上婚姻障害のないこと及び婚姻挙行地の方式を履行していることの二要件を具備する必要がある(法例一三条一項)。そして、当時の中華民国民法(第四編親族・中華民国一九年(昭和五年)一二月二六日国民政府公布、同二〇年(昭和六年)五月五日施行)によると、婚姻の方式として「結婚は、公開の儀式及び二人以上の証人を要する」と規定していた(九八二条)。

(2) 金之助と戴素貞は、当時金之助が営んでいた上海市内のかばん店「萬鞄行」において、結婚の儀式を行つた。儀式には金之助の同業者の日本人、中国人の友人、戴素貞の親族ら少なくとも一〇名が参列した。また、戴素貞の兄である戴徳基と金之助の友人である奚徳甫の両名が、右結婚の紹介人兼証人となつた。結婚式では、新郎新婦が神棚に結婚の誓約をし、その後列席者らに茶や菓子がふるまわれた。更に、市内の写真館で記念撮影も行つている。右両名の結婚式は、参列者も比較的少なく、指輪等の礼物の交換もなかつたが、当時の中国における結婚式は経済力や階級の違いに応じて様々な形態で行われていたものであり、戦時下にあつたこともあつて、簡素なものが多かつたことにかんがみると、当時としてはごく普通の規模並びに方式のものであつた。

なお、右両名にはそれぞれの本国法上婚姻の障害となるべき事実は存在しなかつた。

(3) 以上のとおり、両名は、当時の中華民国民法が定める方式に則つて婚姻し、婚姻障害もなかつたのであるから、右婚姻は我が国法上有効な婚姻というべきである。したがつて、戴素貞は右婚姻によつて日本国籍を取得し、右両名の長子として出生した原告は、出生によつて原始的に日本国籍を取得した。

(二) 養子縁組の追認による取得

(1) 仮に、原告が出生によつて日本国籍を取得していないとしても、原告は、養子縁組の追認によつて日本国籍を取得したものである。すなわち、旧国籍法五条四号によれば、外国人が日本人の養子となつたときは日本国籍を取得するとされている。ところで、本件養子縁組は、真の父である金之助の代諾によるものではないので、無効といわざるを得ないが、原告は、本訴状をもつて右瑕疵ある養子縁組を追認する旨の意思表示をした。したがつて、右養子縁組は遡及的に有効なものとなつたのであるから、原告は、日本国籍を取得した。

(2) 被告は、内務大臣の許可を欠く本件養子縁組は無効である旨を主張する。

確かに、昭和一四年当時、日本人が外国人を養子とするには内務大臣の許可が必要であつたが、養子縁組の効力は養親の本国法によつて定まるのである(法例一九条二項)。したがつて、当該縁組の効力は我が国法によつて定まるところ、当時、養子縁組が無効となる場合については、旧民法八五一条のみが規定するところであり、しかも、同条は、養子縁組が無効となる場合を制限的に列挙しているのであるから、同条各号に該当しない限り縁組は常にその効力を生ずるものと解すべきであつて、かく解することが身分的法律関係の安定のために無効原因を限定した同条の趣旨に合致するのである。換言すれば、国籍は、縁組の成立によつて発生するのであり、内務大臣の許可によつて発生するのではないのである。したがつて、仮に内務大臣の許可がなかつたとしても、原告の国籍取得の効果に消長を来たすものではない。

3  原告は、日本国籍を有することの確認が得られず、いまだに外国人登録法の適用を受けている。

4  よつて、原告は被告に対し、主位的に出生による取得を原因とし、予備的に養子縁組による取得を原因として、原告が日本国籍を有することの確認を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は不知。

2  同2のうち、事実は否認し、主張は争う。

3  同3は認める。

4  同4は争う。

三  被告の主張

1  原告は、原告と日本人である小林諒之助とが同一人であることを前提に本訴を提起している。

しかし、戸籍に適法に記載された事項は特段の事情がない限り真実であると推定されるべきところ(大審院明治三七年一月二三日第一民事部判決・大審院民事判決録一〇輯二七頁、最高裁昭和二八年四月二三日判決・民集七巻四号三九六頁)、原告の出生は、昭和七年(一九三二年)九月二三日であり、小林諒之助のそれは昭和七年一〇月二四日であつて、両者の出生時期は公的資料の上で一月余の違いがある。また、原告は中国上海市で出生した旨を主張するが、小林諒之助は横浜市中区高砂町一丁目弐番地で出生している。更に、原告は、日本人である父金之助と中国人である母戴素貞との子として出生した旨を主張するが、戸籍の記載によれば、小林諒之助は小林常吉と飯塚とくとの間の婚姻外の子として出生した旨、父小林常吉によつて、昭和一四年二月二三日横浜市中区長に対して届出がなされている。

右のとおり、原告戴福生と日本人小林諒之助とは、出生の日、出生の場所及び父母を異にし、他に両者が同一人であることを証する確実な資料は存在しないので、原告戴福生と日本人小林諒之助とが同一人であるということはできず、原告の本訴請求は、その前提を欠くものである。

2  仮に、原告主張の結婚の儀式が行われたことが事実であるとしても、それが中華民国民法九八二条に規定する「公開の儀式」に当たるとはいえず、本件婚姻は有効に成立したとは認められないので、原告が出生により日本国籍を取得することはない。

すなわち、中華民国民法九八二条は、婚姻について儀式婚主義を採用している。中華人民共和国成立前の中国における婚姻は、この中華民国民法九八二条の定めた方式によつてのみ初めて適法に成立するものであつて、単に同棲を実行していても法律上婚姻の効力を生じないとされており(中華民国一八年(昭和四年)上字二〇七二号判例)、また、同棲の事実があり、しかも感情の作用により夫婦と同一の待遇及び意思表示があつても、依然、婚姻関係であるとはいえないとされている(中華民国二一年(昭和七年)上字一〇六七号判例)。更に、中華民国民法が引き続き施行されている現在の台湾の最高法院も、「婚姻は要式行為に属するものであり、男女双方がかつて同居し、子を生み育てたことがあるとの事実、或いは外で夫婦関係であると自称しているだけでは、それが夫婦関係があると認定することはできない」と判示している(中華民国六九年(昭和五五年)台上字三三一六号判決)。

ところで、公開とは、一般に不特定の人が共に眼にすることができることであるとされ(中華民国二二年(昭和八年)院字八五九号解釈)、公開の儀式とは、結婚(婚姻)の当事者が定式の礼儀を行い、不特定の人をして共に聞き、共に見、それが結婚であると認識させるものを指すとされている(中華民国五一年(昭和三七年)台上字五五一号判例)。如何なる場合に公開の儀式に該当するかについては、一般の習俗によつて戸の前に赤い絹をかけて、多数人をしてこの家に結婚する人がいることを知悉させ、後に爆竹を嗚らし、祖先を祭つて公同に賓客をもてなして、一般人が男女双方の結婚行為を知つたときは、中華民国民法九八二条に定める公開の儀式の要件を具備しているとされている(中華民国五二年(昭和三八年)台上字二八八号判決)が、男女双方が二人の証婚人及び数人の親戚、友人と約束して、旅館の宴会場で酒席を置くとしても、もしその情況が結婚の儀式を挙げるものと認めることができないならば、主観的には婚礼を行うと考えたとしても、それは依然、公開の儀式とはいえないとされている(中華民国二六年(昭和一二年)院字一七〇一号解釈)。

原告の主張する結婚の儀式については右に述べた中華民国民法九八二条に定める「公開の儀式」の解釈・適用に照らしてみても、公開の儀式があつたものとは言えず、適法な儀式婚が行われたとは認められない。

したがつて、原告の主張する婚姻については、婚姻挙行地の中華民国の方式を履践していないことから、我が国法上有効なものと認めることはできず(法例一三条一項但書)、仮に原告の母が中国人戴素貞であるとしても原告は同女の非嫡の子として出生したことになり、出生の時に父がいなかつたことになるので、出生により日本国籍を取得することはありえない(旧国籍法一条)。

3  原告と金之助との養子縁組は、縁組成立の要件である内務大臣の許可を受けておらず、無効であり、これを原因に原告が日本国籍を取得することはない。

すなわち、明治三二年九月一四日から国籍法(昭和五九年法律第四五号による改正前のもの)が施行されるまでは、日本人が外国人を養子又は入夫とする場合は、内務大臣の許可を得ることが必要であつた(明治三一年七月九日法律第二一号)。右のような規定が必要とされた理由は、旧国籍法では、外国人は日本人の養子になることによつて直ちに日本国籍を取得することとされていた(五条四号)ので、これと帰化による日本国籍の取得の条件との権衡を図るために、外国人を養子にする場合も内務大臣の許可を要することとし、内務大臣は一定の条件を備えた者でなければ許可を与えることができないこととするためであつた。したがつて、内務大臣の許可は縁組成立の有効要件であり、これを欠く縁組は無効である(東京高裁昭和二四年七月一九日高裁民集二巻二号一四七頁、昭和三二年一一月二五日付け民事甲第二二四三号民事局長回答、昭和三三年一二月三日付け民事甲第二四五〇号民事局長回答)。

なお、旧民法八五一条は、縁組の無効原因を列挙しているが、これは日本人間の縁組に関する規定であり、前記明治三一年法律第二一号により縁組が無効となりうることを否定する趣旨でないことは当然である。

第三証拠<略>

理由

一  請求原因3の事実(確認の利益の存在)は、当事者間に争いがない。

二  そこで、まず、原告の血統上の父母が誰であるかを検討する。

<証拠略>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

日本国籍を有する小林金之助(明治三四年一月五日生、本籍横浜市南区高砂町一丁目一〇番地)は、昭和六年当時、中国上海市において、かばん店を開業していたが、同業者西山の経営する「横浜洋行」の従業員戴徳基の妹で、中国国籍を有する戴素貞と知り合い、同年秋ころ挙式のうえ、上海市虹口区四川北路刑家橋南路二〇二号所在の店舗兼住居「萬鞄行」において結婚生活を始めたが、婚姻届は提出しなかつた。そして、同女は、ほどなく金之助との間の子である原告を懐胎し、昭和七年一〇月二四日原告を出産した。原告は、両親から諒之助(通称・諒坊)と命名された。その後、金之助及び戴素貞の間には、昭和八年一一月二五日二男の慶之助、同一〇年一〇月一日三男の潤之助、同一四年二月一日四男の秀之助がそれぞれ出生した。金之助は、昭和一二、三年ころ、家族と共に南京に転居し、やはり「萬鞄行」という屋号で皮革製造販売業を営み、原告は同所の日本人学校である南京第一国民学校に入学した。金之助は、昭和一五年ころ戴素貞と離婚別居するに至り、同一七年二月九日桐木平シツエ(大正二年三月二五日生)と再婚し、入籍した。金之助一家は、昭和二〇年終戦を迎え、同年冬帰国準備のために上海所在の前記「横浜洋行」の三階へ移り住んだが、このころから、原告は、戴素貞の同居する戴徳基の家へ出入りするようになつた。原告は昭和二一年三月ころ戴素貞の老後の面倒をみるために同女のもとへ引き取られ、他方、金之助は、慶之助、潤之助及び秀之助を連れて日本へ引き揚げ、横浜に居住する金之助の父常吉のもとに身を寄せた。戴素貞は、原告を戴福生と命名し、当時の中国国民党政府に中国人として届け出た。その後、原告は、ミシン関係の会社、紡績会社、クレーン等の製造会社等の従業員として働く一方、日本語を中国語へ翻訳する等の仕事をしていた。原告は、慶之助と文通をしているうち、日本へ帰国する意思が強まり、戴福生こと小林諒之助の名義でパスポートを入手し、昭和五五年一一月一日墓参の目的で一時帰国したが、翌年永住帰国に目的を変更する旨の申請をしたところ、同五七年四月二八日許可された。

なお、原告に関しては、昭和一四年二月二三日付けで小林常吉を実父、飯塚とくを実母とし、横浜市中区高砂町一丁目二番地を出生地とする出生届がなされ、同日付けで小林常吉を代諾者金之助を養父とする養子縁組の届出がなされた旨の戸籍記載が存在する。また、慶之助、潤之助及び秀之助については、いずれも昭和一五年二月二七日付けで小林常吉を実父、飯塚とくを実母とし、前同所を出生地とする出生届がなされ、翌日付けで右同様の養子縁組の届出がなされている。

以上の事実が認められる。

右によれば、原告戴福生と小林諒之助は同一人であることが明らかであり、原告の血統上の父は金之助、母は戴素貞であると認めることができる。

被告は、原告戴福生と小林諒之助は、公的資料の上において、生年月日、出生地、父母を異にするから、両者が同一であることを確認できない旨を主張する。

確かに、<証拠略>によれば、中国上海市高級人民法院の公証する戴福生の生年月日は一九三二年(昭和七年)九月二三日であり、<証拠略>によれば、小林諒之助の戸籍上の生年月日は昭和七年一〇月二四日であつて、その間に一か月余の開きがあることが認められる。しかし、原告は、この点に関し、原告本人尋問において、右の差異は、終戦後、戴素貞が戴徳基と相談のうえ、原告を中国人として届け出る際に、当時の中国国民党政府の指導で旧暦で届け出たために生じたものである旨を供述するところ、右供述部分の信用性を疑うべき特段の事情も認められないから、原告の出生日は昭和七年一〇月二四日と認めるのが相当である(なお、西暦昭和七年一〇月二四日は旧暦では同年九月二五日となり、届出に係る日と一日(編注・更正決定により、二日と訂正された。)だけ異なるが、これは、単なる新旧暦換算の誤りと認められる。)。

また、小林諒之助の戸籍上の出生場所は横浜市中区高砂町一丁目二番地であり、戸籍上の実父は小林常吉、実母は飯塚とくとなつていることは、前認定のとおりである。しかしながら、飯塚とくが戸籍の記載どおり昭和七年一〇月二四日ころ、前同所において、小林諒之助を分娩した事実を窺わせる証拠は全くないのみならず、前掲各証拠及び弁論の全趣旨によつて認められる以下の諸事情に照らしても、原告戴福生と小林諒之助は同一人であることが明らかというべきである。すなわち、〈1〉原告と小林慶之助は、体格、容姿、顔貌が酷似し、一見して血縁関係にある者と推測されるばかりでなく、血液型も同じA型である。〈2〉原告は、物心のついた時から日本語を話し、中国残留後も日本語を翻訳する仕事に携わつたことがあり、現在も日本語が堪能である。〈3〉慶之助の記憶によれば、諒之助は、南京在住当時後妻のシツエと折り合いが悪く、事あるごとく怒られていたが、ある日同女に作業用の錐を投げつけられ、それが丹毒のけがをしていた足に突き刺さり、大騒ぎになるという事件があつたが、原告の足にはその時のものと思われる傷痕が残つている。〈4〉原告は、昭和三九年ころ戴素貞がかばんの中に保管中の子供のころの写真(<証拠略>)を偶然発見し、被写体の人物が母、自分、慶之助、潤之助及び秀之助であることを直観的に理解し、それぞれ名前を写真の裏面に記載しておいた。〈5〉原告は、そのころ自分の本籍地が横浜であることを思い出して、横浜市長宛手紙を発送し、その結果、秀之助と連絡を取ることができるようになつた。〈6〉慶之助は、原告と文通する中で、幼少時の思い出を回想したが、それは原告の記憶とほぼ一致していた。また、同人は原告と再会した際、原告が兄諒之助であることを直観した。

したがつて、諒之助に関する戸籍上の記載が真実と異なつているとしても前記認定判断を覆すに足りないというべきであり、他に右認定判断を左右するに足りる証拠はない。

三  次に、原告が出生により日本国籍を取得したか否かを判断する。

金之助と戴素貞が結婚した当時施行されていた旧国籍法五条一号によれば、外国人が「日本人ノ妻ト為リタルトキ」は、日本国籍を取得することとされ、また、日本人が外国人と婚姻した場合に、その婚姻が我が国法上有効に成立するためには、婚姻の各当事者について、その本国法上婚姻障害のないこと及び婚姻挙行地の方式を履行していることの二要件を具備する必要があるところ(法例一三条一項)、当時、婚姻挙行地である中華民国で施行されていた民法九八二条が「結婚は、公開の儀式及び二人以上の証人を要する」旨を規定していることは、成立に争いのない甲第二三号証により明らかである。よつて、以下金之助と戴素貞の婚姻が右規定の定める方式に則つて行われたものであるか否かを検討する。

<証拠略>を総合すれば、次の事実が認められる。

金之助と戴素貞は、挙式にあたり、同女の妹戴剣華ら親族、友人に結婚式の招待状を出し、昭和六年秋ころ、前記上海「萬鞄行」において、結婚式を行つた。式には戴徳基及びその妻何賽珍、右戴剣華及び戴素貞の弟戴徳珊、金之助の友人奚徳甫及び戴小林、前記「横浜洋行」の西山夫妻、「西山兄弟商会」の西山夫妻ら少なくとも一〇名が参列した。その際店舗入口の扉には、「喜」の字を二つ書いた赤い紙が張られ、同所において婚礼の儀が行われることが表示されていた。右儀式においては、戴徳基と奚徳甫の両名が右婚姻の紹介人兼証人となつて式次第が進められた。最初新郎新婦が神棚の前でお祈りをささげたうえ、結婚の誓約をし、その後列席者に茶及び菓子がふるまわれた。その際近所の子供達も婚礼の儀を見に来ていた。指輪等礼物の交換及び出席者に対する贈り物はなかつた。戴素貞は、婚礼に際し赤色の絹の中国服を着用し、髪には赤い花をつけていた。婚礼の後、市内の写真屋で記念撮影が行われた。

以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない(<証拠略>は、結婚式に出席した関係者の供述書ないし供述録取書であり、右供述内容は反対尋問にさらされておらず、弁論の全趣旨によれば、誘導尋問に基づく供述を記載したものも存することが窺われるが、特に不自然、不合理と認むべき点はなく、相互に矛盾する点もないのであつて、十分証拠価値を認めることができるものというべきである。)。

右認定事実によれば、金之助及び戴素貞の両名は、当時の中華民国民法が定める公開の儀式の方式に則つて婚姻したものであり、右婚姻につき二人以上の証人を有していたものと認めることができる。また、右両名に本国法上婚姻障害が存したことを窺わせる事情は全くないから、双方とも婚姻障害は存在しなかつたものと認められる。したがつて、金之助と戴素貞の右婚姻は、我が国法上有効な婚姻ということができる。

そうすると、戴素貞は右婚姻によつて日本国籍を取得し、右両名の嫡出子として出生した原告は、昭和五九年法律第四五号による改正前の国籍法二条一号(編注・更正決定により、旧国籍法一条と訂正された。)の規定に基づき、出生により原始的に日本国籍を取得したものというべきである。

四  よつて、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 宍戸達徳 小磯武男 金子順一)

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